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興業とは?/ ディック

[ 755] 吉本興業 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E8%88%88%E6%A5%AD

2007年10月1日から持株会社制へ移行し、同社の事業部門は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー、よしもとデベロップメンツ、よしもとアドミニストレーションにそれぞれ分社化されたために、現在は吉本興業グループの持株会社となっている。
明治末期の創業以来100年近くにわたり、古くは桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼から、現在のダウンタウン、ナインティナイン、オリエンタルラジオに至るまで、東西の多くの人気芸人を輩出してきたお笑い界の名門。テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。意外と知られていないが、東京の二大落語家団体の一つ、落語芸術協会の創設者でもある。
また戦前は、巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。元々は全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称された。現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」とも揶揄され、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。
創業者の姓を採り「吉本」と名乗っているが、現在はオーナー経営ではない。大株主には大成土地、大成建設(大手ゼネコン大成建設とは無関係)、三井住友銀行、朝日放送、毎日放送などが名を連ねている。銀行系列は特にないが、旧大和銀行系の大輪会に参加している。梅田の大地主として知られる吉本ビルディングとは、社名からよく間違われるが、資本・人材共に無関係である。
創業は1912年(明治45年)4月1日。始まりは吉本吉兵衛(本名:吉次郎、通称:泰三)・せい夫婦が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めた事であった。翌1913年1月には大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に吉本興行部が設立される。1915年には傘下の端席のほとんどを「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから「花月」と改名し花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)結成。吉兵衛・せい夫妻は、桂派、三友派の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた、1921年に非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、後に反対派を吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握する事になる。しかし、1924年に泰三が急性心筋梗塞で死去し、若き未亡人せいが経営を背負う事になるが、せいの二人の弟の林正之助が大阪で、林弘高が東京で活躍し、大過なく経営を続ける事が出来た。その後大正時代には大阪だけでも20あまりの寄席を経営し、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していた。
当初は専属芸人のラジオ(当時のJOBK・大阪放送局)出演を堅く禁じていたが(当時の林正之助総支配人が「ラジオでタダで芸を聞かせたら寄席に客が来なくなる」として禁止したそうである)、1930年12月7日に桂春団治がその禁を破ってJOBKに初出演。吉本は禁を破った春団治の寄席出演を堅く禁じたが、その後しばらくして春団治が寄席に復活した途端に客が押しかける様子を見て、専属芸人を放送番組に出演させる事が結果として自らの営業利益に繋がる事を知り、1934年5月4日にJOBKと吉本は和解を果たした。1930年(昭和5年)には漫才(当時の万歳)専門の寄席小屋「南陽館」を開館、当時としては破格の値段10銭という入場料で横山エンタツ・花菱アチャコ、秋田Aスケ・Bスケ、芦乃家雁玉・林田十郎らが出演し人気を博す。
また大正末より、東京・横浜への進出を開始し、大正11(1922)年1月には神田の寄席「川竹亭」を買収して「神田花月」として開場、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を手に入れている(翌年「横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区の興行街への進出に本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた。1935年11月には東京吉本の本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。また1932年3月1日に吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社が発足すると、正式に東京支社を開き、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる体制が確立する。同年には「漫才」の名付け親として知られ、後に同社の社長にもなった橋本鐵彦、1934年には漫才作者として名高い秋田實が入社した。
東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出した。「浅草花月」オープン時には流行歌手の東海林太郎やタップダンサーのマーガレット・ユキを出演させ、映画を上映し、レビューの「吉本ショウ」を上演している。専属のバンドとダンサー・チームを抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここから後に 川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英による、ボーイズの元祖「あきれたぼういず」が誕生した。「あきれたぼういず」以外にも当時の東京吉本は、柳家金語楼、柳家三亀松を筆頭に、石田一松、永田キング、木下華声(元2代目江戸家猫八)、松井翠声、伴淳三郎ら多くの東京の人気芸人を専属に抱えていた。タップダンサーの中川三郎や姫宮接子、元祖外国人タレント・ミス・バージニア[1]、喜劇王「シミキン」こと清水金一、コメディアンの堺駿二(堺正章の父)、木戸新太郎(キドシン)、泉和助、杉兵助(コント赤信号の師匠)[2]も当時、東京吉本に所属していたことがある。
こうした東京吉本のモダン・ハイカラ路線の裏には、当時優秀なスタッフの奮闘があったことは特筆されよう。東京吉本を率いる林弘高は、欧米の視察経験もあって、当地のエンターテイメント事情に明るく、吉本を色物主体の演芸会社から、ジャズやタップ・ダンス主体のバラエティ・ショーを主軸とする興行会社へ近代化させようとした。ジャズ評論家の瀬川昌久によれば、当時東京吉本の文芸部にはサトウ・ハチローや阿木翁助など多士済々の作家陣が在籍していたが、中でも長年「吉本ショウ」の脚本を手がけていた岩本正夫は、早稲田大学文学部出身で、英語にも堪能であった。そして松井翠声がアメリカのミュージカル雑誌の切抜きを始終持ってきては、岩本がこれを翻案し、さらには新しい欧米映画を何度も見てネタを拾っては、脚本を書いたという。1940年(昭和15年)には、谷口又士をリーダーとして「吉本スイング・オーケストラ」が結成され、浅草花月の舞台に登場するが、これも当時アメリカのショー・ビジネスを見学した林弘高が、丁度結成されたばかりであるスパイク・ジョーンズのコミックバンドを見て感激し、その日本版を狙ったといわれる[3]。
またこの時期吉本興業は、スポーツや映画といった演芸以外の分野にも積極的に進出している。1934年には、正力松太郎の音頭の下、京成電鉄や東芝等と共同出資して、プロ野球の巨人軍(当時の名称は大日本東京野球倶楽部)を設立。林正之助を、巨人軍の役員に送り込んでいる。また1933年には、吉本の社内に映画部を設立。1935年には、映画会社東宝の前身の一つであるピー・シー・エル映画製作所(PCL)と、さらに翌年東宝映画配給と提携し、1936年には林正之助が東宝映画配給の取締役に就任している。こうして横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼ら吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになった。また、本業の演芸部門でも東宝との合弁企業・東宝演芸を東京に設立し、東京での演芸興行にも一層注力する事になった。その一方で当時三大興行資本と言われた松竹・東宝・吉本の内、東宝と吉本が急接近したことは、松竹を刺激し、松竹傘下の新興キネマによる、後述の吉本芸人の引き抜き騒動を引き起こすことにもなった。
この1935年(昭和10年)前後が、戦前の吉本興業の最も華やかな時期だったと言えよう。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市に47館の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属の芸人数は約1300人に上った。プロ野球の球団経営(巨人軍)や映画製作を手がける一方、寄席の舞台や映画のスクリーンでは、横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄の吉本の5大スターが人気を競った。ちなみに戦前の吉本で最も高給を取っていたのは、金語楼と言われている。
しかし1939年(昭和14年)には、吉本を揺るがす大事件が起きる。いわゆる「新興引き抜き騒動」である。松竹が傍系の映画会社新興キネマに演芸部を設立させ、吉本の人気芸人を引き抜きにかかったのである。その背景には、前述のように当時の三大興行資本の内、東宝と吉本が急接近したことに松竹が反発したことがあった。当時引き抜きに応じて吉本から新興キネマに移籍した芸人は、大阪吉本では、漫才コンビのミスワカナ・玉松一郎、松葉家奴・喜久奴、西川ヒノデ・サクラ等、東京吉本では、川田義雄を除く「あきれたぼういず」、東京漫才の若手・香島ラッキー・御園セブン等であった。川田が吉本に残留したのは、当時「吉本ショウ」の踊り子・桜文子と結婚したばかりであり、その媒酌人を林弘高・東京支社長に引き受けてもらったために、吉本に恩義を感じていたからと言われる。結局川田は、新たに音楽ショウ「川田義雄とミルク・ブラザース」を結成し、「地球の上に朝が来る」のテーマ・ソングで人気の巻き返しを図った。またミスワカナの抜けた穴を埋めるために、1942年(昭和17年)、旅回り一座から後のミヤコ蝶々がスカウトされ、吉本入りしている。
吉本は一方で、当時の国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした。1938年(昭和13年)からは、大阪朝日新聞と協力して「わらわし隊」という戦地慰問団を結成し、エンタツ、アチャコ、金語楼、三亀松ら自社の人気芸人を続々と中国大陸に派遣した。また1941年(昭和16年)、情報局や大政翼賛会の主導により「移動演劇連盟」が設立されると、これに呼応して「吉本移動演劇隊」を結成し、全国を巡演した。さらには映画製作においても、金語楼主演の「プロペラ親爺」(1939年)のように国策に沿った喜劇映画を数多く製作した。そして1943年(昭和18年)、当時所有していた大阪の通天閣が出火で焼けると、復旧工事を止めて通天閣を解体し、政府に軍需資材として献納した。
他方で、戦争が泥沼化し、本土への空襲も始まると、吉本は物的・人的にも大きな打撃を被る事になった。1945年3月の東京大空襲では、神田花月と江東花月が焼失。神奈川県下に所有していた劇場も度重なる空襲ですべて失い、関東地区における吉本傘下の劇場で終戦時に残ったのは、浅草花月劇場、浅草大都劇場、銀座全線座の3館のみであった。地元大阪でも、相次ぐ空襲で、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した。また出征していった所属芸人の戦死にも見舞われた。こうした混乱もあり、吉本興業は終戦直前に花菱アチャコを除く全所属芸人との専属契約を解消するに至った(同時に会社に借金がある芸人についてはその借金を棒引きしている)。ただし専属契約の解消時期については「戦後の1946〜1947年頃」とする資料もあり[4]、終戦直後の混乱の中で情報が錯綜した中での契約解消であったことがうかがえる。
終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。そして1948年12月に封切公開された大映映画「大島情話」(主演・坂東好太郎 監督・木村恵吾)を皮切りに、次々と映画を製作していった。また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。さらに1946年10月には京都で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。1948年1月7日に現在の吉本興業株式会社が発足している。1949年に大阪証券取引所、1961年には東京証券取引所に上場した。その一方で、1950年には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた吉本せいが死去した。
一方、林弘高率いる東京吉本は、戦後の1946年10月、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営と共に、デビュー当時の江利チエミのマネジメントや力道山のプロレス興行を手がけていった。チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・久保益雄、母親が喜劇女優・谷崎歳子であり、両親共に東京吉本の所属だったことから、チエミも東京吉本の所属になったものと思われる。さらに1946年11月には、映画会社東映の前身の一つ、「太泉映画」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、数々の映画を製作した。また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区の他の劇場と同様、ストリップや大江美智子の女剣劇を上演する一方、引き続きトニー谷、由利徹、海野かつを、ショパン猪狩(後の東京コミックショウ)ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」を始め多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には会社更生法の適用を受けるに至った。
他方、映画館経営を主軸としてきた大阪の吉本興業は、昭和30年代に入ると、テレビの隆盛と映画の衰退に危機感を覚え、再び演芸部門を復活することにした。落語や漫才の主力芸人は戦後いち早く演芸を再開した松竹系に取られていたため、コメディを中心にすることにし、それをテレビで中継させて客を呼ぶ作戦に出た。そうして1959年(昭和34年)3月1日に、手持ちの映画館を演芸場に改装して、うめだ花月として開場、演芸再開に乗り出した。演目は花菱アチャコ主演の吉本ヴァラエティ「迷月赤城山」であり、うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始した毎日放送に舞台中継させた。その後吉本興業は、直営の映画館を演芸場に改装する形で、1962年(昭和37年)には京都花月を、翌1963年にはなんば花月を開場。吉本ヴァラエティは、1962年には吉本新喜劇と名前を変え、白木みのる、平参平、ルーキー新一、花紀京、岡八郎、原哲男、財津一郎らスターを続々と生み出していった。
昭和40年代には、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていった。まず若手落語家の笑福亭仁鶴がラジオの深夜番組で人気を得、続く毎日放送のテレビ番組「ヤングおー!おー!」で、同じ吉本所属の若手落語家・桂三枝が人気者となった。さらにこの頃より、横山やすし・西川きよし、コメディNo.1ら吉本所属の若手漫才師も、若者の圧倒的支持を受けるようになっていった。
このように吉本興業は落語・漫才・コメディの分野で若い人気芸人を次々と輩出していった一方で、ライバルの松竹系の松竹芸能は老齢の重鎮クラスの芸人が多く、世代交代が進まなかったこともあり、昭和50年代に入ると、上方演芸界の主導権は再び松竹系から吉本興業へ移っていった。特に1980年(昭和55年)の漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまら吉本興業から全国区の若手人気芸人が続々と出た一方、松竹芸能は春やすこ・けいこを除くと全般的にブームに乗り遅れたことで、それは決定的になったと言える。以後吉本興業が上方の演芸界を支配する構図が、今日に至るまで続いている。
そして吉本興業は1980年、東京連絡事務所(後に東京支社、さらに東京本社に格上げ)を設置、東京吉本の再興にも乗り出した。80年代は純粋な東京吉本出身の芸人は野沢直子ぐらいであったが、90年代以降、吉本が「銀座7丁目劇場」「渋谷公園通り劇場」「ルミネtheよしもと」「神保町花月」と次々と東京に劇場をオープンさせたことに加え、吉本総合芸能学院(NSC)の東京校が開校したこともあり、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティ、品川庄司、ロバート、インパルス、森三中、オリエンタルラジオ等、東京吉本出身の芸人が続々と育ち、近年テレビを席巻しつつある。現在、東京吉本は、神田神保町に本社ビルを構え、所属の芸人数から見ても、社員数から見ても、売上高から見ても、大阪吉本と肩を並べる存在である。
さらに吉本興業は80年代末以降、名古屋、福岡、札幌、広島に支社または事務所を続々と開いていき、地方のテレビ局への食い込みを図ると共に、ローカルタレントの育成にも乗り出した。そうした地方の吉本所属のローカルタレントの中から、札幌吉本出身のタカアンドトシ、アップダウンや福岡吉本出身の博多華丸・大吉、バッドボーイズのように、近年、全国区で活躍する者も出てきている。
現在の吉本興業は、直営劇場を東京に2つ、大阪に3つ、さらにテレビ番組収録用のホールを東京・大阪に各1つ持ち、所属タレントは約800人という陣容である(2008年秋に大阪にさらに劇場を1つ新設する予定)。全国に直営劇場・寄席・映画館を47館持ち、所属芸人は約1300人という戦前の全盛期(昭和10年頃)には未だ及ばないものの、依然として総合娯楽産業の雄であることは言を待たない。
また近年は芸人だけでなく、一般の社員の採用、育成に力を入れている。さらに、興行以外にも多くの事業を展開してることから「総合アミューズメント産業の中心」という見方があり、就職先としても人気が出ている。ただ、「芸能人に近づける」というイメージも未だに強く、新入社員説明会は冷やかしが増えたためか、近年有料化にした経験もある。
社員教育は徹底しており、マネージャーはあくまで所属芸人のマネジメントをする人間であって、付き人ではないという考えから、荷物持ち等の雑用はしないようにと厳命している。又、弟子を持っている芸人に対しても師匠と呼ぶことも禁じている。
2007年10月1日には持株会社に移行、マネジメント・制作・営業統括部門を「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」、不動産賃貸・その他の事業統括部門を「株式会社よしもとデベロップメンツ」、経理・人事などの統括管理部門を「株式会社よしもとアドミニストレーション」にそれぞれ分社、ファンダンゴを株式交換で完全子会社化し、「株式会社よしもとファンダンゴ」としている。
長く上方演芸界の中心を担ってきた吉本には、上方演芸に対する功罪共に存在するのは事実であろう。多くの上方芸人を育てたこと、関西一円に寄席・劇場・映画館を多数持ち、集客効果を発揮して、周囲の繁華街の発展に寄与したことは、その功績として誰しもが認めるところである。さらには戦前、安来節を流行らせ、前述の桂春団治をめぐる放送番組の件や、京都の松竹と競合すると見るや新興資本の東宝と組んで漫才=演芸と映画を融合させる等、今日のマスメディアとショービジネスの関連性をいち早く見抜き、メディアミックスの手法を取り入れて大いに活用し躍進した。一時は大阪・新世界の通天閣も購入し、隆盛を誇っていた。
とりわけ戦前の吉本の功績としては、漫才の近代化に積極的に取り組んだことが挙げられよう。かつて「万歳」は、楽器を持った「音曲万歳」が主流であったが、昭和初期以降、吉本は純粋に話芸のみで勝負するしゃべくり漫才を育て、これを漫才の主流とした。またそれまでの「万歳」の表記を、現代風に「漫才」と変えさせたのも、吉本である。こうしたしゃべくり漫才化の動きはやがて東京の漫才界にも及び、現在に至っていることを思えば、その功績の大きさが窺える。無論こうした漫才近代化の功績は吉本のみに帰せられるのではなく、 横山エンタツ・花菱アチャコを始めとする優れた演者、秋田實らの優れた漫才作家の存在があったことも忘れてはならない。
また戦後の吉本の功績としては、伝統的な大阪仁輪加の流れを受け継ぐ「松竹新喜劇」とは別に、東京・浅草のアチャラカ喜劇の流れを受け継ぐ「吉本新喜劇」(当初は吉本ヴァラエティ)を結成し、大阪に軽演劇というジャンルを根付かせたことであろう(吉本新喜劇初期の出演者に、守住清、清水金一、木戸新太郎、財津一郎など浅草の軽演劇出身者が多いことは周知の事実である)。その後、本場・浅草では軽演劇というジャンルがほぼ絶滅したのに対し、それが移植された大阪では形を変えながらも今日まで続いているのは、ある種の皮肉である。
一方、吉本に対する評価が分かれるのは、上方落語に対する功罪である。とりわけ上方落語界のスターだった初代・桂春団治が1934年(昭和9年)に死去した後、上方落語は一時絶滅寸前にまで衰退するのだが、その原因は戦前の吉本の漫才重視政策にあるとする関係者もいる。即ち、前述のように戦前の吉本は「過度に」漫才に力を入れ、落語を軽視したために、それが上方落語の衰退を招いたと見るのである。実際漫才の興隆の前に、寄席の出番も減り、落語家からは廃業する者や自ら漫才師に転身する者が当時出てきたことは事実である。しかし戦前、吉本の幹部社員として漫才重視政策を推進し、戦後は吉本の社長も務めた橋本鐵彦は、演芸評論家・香川登志緒による聞き書きの中で、吉本が上方落語を衰退させたという説を全面的に否定している[5]。また東京の演芸評論家である矢野誠一も、当時の吉本の漫才重視政策が、上方落語の衰退を加速させたことは事実としながらも、当時の上方落語自体にも衰退する理由があり、吉本が上方落語を潰したとまでは言えないと結論付けている[6]。
「吉本=大阪・お笑い」というイメージも強いが、戦前は必ずしもそうではなく、前述の通り東京・横浜にも多くの寄席・劇場・映画館を所有し、柳家金語楼、柳家三亀松、川田義雄ら多くの東京の芸人を専属に抱えていた。戦後も、デビュー当時の江利チエミのマネジメントを手がけている(彼女の両親も東京吉本所属の芸人だった)。さらに戦前は球団経営(プロ野球の巨人軍)を手がけ、戦後も映画会社東映の前身の一つ、太泉映画を設立するなど、興行資本としての性格も強い(ちなみに戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と呼ばれていた)。
一方、上方の演芸に対してだけでなく、東京の演芸に対しても、吉本は功罪相半ばすると言えよう。まず「功」の部分としては、大正末の関東大震災の際に、被災した東京の演芸界に対して積極的に支援の手を差し伸べたことが挙げられる。当時吉本の幹部社員が上京して、被災した芸人を直接訪ねて歩き、慰問物資を配って歩いたと言われる。さらには東京の寄席が壊滅状態となって出演の場を失った東京の芸人を大阪に招き、吉本の寄席に出演させた。そのために、後年まで「吉本」の名は、当時の東京の演芸界に「恩人」として刻み込まれたといわれる[7]。さらに吉本自身、大正末に関東進出を果たして以降、柳家金語楼、柳家三亀松など多くの東京の芸人を育てたこと、東京・横浜に多くの寄席や演芸場を開いたことも吉本の功績である。中でも、「浅草花月劇場」など、浅草公園六区の興行街に多くの劇場・映画館をオープンして、浅草の繁栄に寄与したことは特筆されるべきであろう[8]。また、あきれたぼういずを育て、東京の演芸にボーイズという新たなジャンルを確立したこと、東京の落語界再編にも乗り出し、落語芸術協会を立ち上げて、今日の東京落語界の興隆の基礎を作ったことも忘れてはならない。そうしたことを考えるならば、当時東京に進出していた関西系興行資本3社、松竹・東宝・吉本の内、東京の演芸界に対する寄与という点では、吉本が最も大きかったとも言える。
他方、戦後は吉本が東京から一時撤退し、大阪のローカル企業としての色彩を強めていったこともあり、戦前の東京吉本の歴史を知らない東京演芸界の若い世代からは、大阪べったりに見える吉本への批判や疑問の声が飛び出すことにもなった。例えば人気がなければ切り捨てるという点で立川談志は「あいつらは戦前から売れねぇと使けぇ捨てるんだョ。ったく冷てぇったらありゃしねぇよ。」と著作において批判している。また永六輔は江戸笑芸を徹底否定する戦略を打ち出す姿勢を問題視しており、毎日放送が大正テレビ寄席を打ち切ってサモン日曜お笑い劇場に差し替えた事に激怒。絶縁以降は自身出演のラジオ番組・自身が請け負った連載で徹底的に揶揄するほど非難している。
他の芸能プロダクションに比べ、所属タレントの不祥事も多い。特に1970年代には主として賭博がらみの不祥事が多く発生した。特に横山やすしによる度重なる不祥事は周知の事実である。また、2000年代では島田紳助の局内での暴行事件が発生している。ただ、これらの不祥事に対する事務所の対応は大変素早く、不祥事を起こしたタレントには事件の重大性やタレント自身の業界における立場を考慮した上で謹慎処分や解雇処分が下される。
吉本興業の創業者は吉本吉兵衛(通称・泰三)とその妻・せいである。1912年(明治45年)に夫婦で大阪の寄席経営に乗り出してから、吉本の歴史は始まった。1913年(大正2年)には、吉本興行部を設立している。吉本せいをモデルにした山崎豊子の小説「花のれん」では、この時期に吉本の経営の采配を揮っていたのはせいであり、夫の吉兵衛は道楽者で経営には全く興味がなかったかのように書かれている。しかし矢野誠一による評伝「女興行師 吉本せい」によれば、吉本興行部主人として実質的に経営を指揮していたのは吉兵衛であり、せいはむしろ内助の功に徹していたという。ともかく、吉兵衛は1924年(大正13年)、37歳の若さで死去し、未亡人となったせいが、経営の表舞台に立たされることになった。
しかし吉兵衛存命中の1917年(大正6年)、せいは実弟の林正之助を吉本興行部総監督として迎え入れている。また吉兵衛死後の1928年(昭和3年)には、正之助の実弟となる林弘高も招いて、既に吉本が進出していた東京・横浜地区の仕事を一任した。ここに創業家の吉本家に加え、せいの実家である林家が吉本の経営陣に登場してくることになる。
1932年(昭和7年)に吉本興行部は吉本興業合名会社になり、せいが主宰者、正之助が総支配人、弘高が東京支社長に就任、ここに大阪吉本を林正之助が、東京吉本を林弘高が率いる図式が出来上がる。しかし戦前の東京吉本に詳しい演芸評論家の小島貞二によれば、当時の東京吉本は、形式的には吉本興業の東京支社を名乗っていたものの、実体は「吉本株式会社」として独立し、弘高が社長を務めていた。しかもこの「独立劇」自体、弘高と兄の正之助間のトラブルによるものであったという[9]。1938年(昭和13年)には吉本興業合名会社は吉本興業株式会社に改組、せいが社長に就任するが、実際の経営は専務となった正之助が担うこととなった。
戦後の1946年(昭和21年)、弘高率いる東京吉本は、「吉本株式会社」として、正式に大阪の吉本興業から分離独立する。この独立劇も、弘高と正之助間のトラブルの産物であったかどうかは定かではない。以後も両者は協力して力道山のプロレス興行を手がけているところを見ると、この独立劇の背後に骨肉の争いがあったとも思えない。社史「吉本八十年の歩み」には、終戦後の混乱の中で吉本興業本体の経営を身軽にするために、東京吉本を切り離したという趣旨で書かれている。
さて戦後の1948年(昭和23年)、吉本せいは吉本興業の社長から会長に退き、林正之助が社長に就任した。一方せいは、正之助に任せている吉本興業の経営を、将来は溺愛する一人息子の吉本穎右に継がせる予定であった。しかし穎右は、せいの反対を押し切って、歌手の笠置シヅ子と結ばれ、1女を設けた。挙句に1947年(昭和22年)に24歳の若さで死去してしまう。後を追うように、せいも1950年(昭和25年)に60歳で世を去った。両者の死は、吉本の経営にとって、1つの転換点となった。もし穎右の死がなければ、彼が吉本興業の社長を継いでいただろうし、彼の妻となった笠置シヅ子には、歌手に加えて吉本興業社長夫人の肩書きが加わっていたはずである。そして現在に至るまで、吉本の実質的な経営権は吉本家の下にあったかもしれない。しかし穎右とせいが相次いで世を去ったことで、吉本興業の実権は名実共に創業家の吉本家から林正之助社長の林家に移ることになった。
1963年(昭和38年)、正之助は体調不良を理由に、社長を辞任した。後を継いだのは、東京吉本(「吉本株式会社」)を率いる弟・弘高である。彼が大阪に乗り込み、吉本興業の社長に就任した。しかし同時に彼は東京吉本の自分の息のかかった幹部社員を連れてきた。以後、吉本興業内では、正之助・大阪吉本系と弘高・東京吉本系の社員間で、主導権争いが続いた。弘高は新たに巨大ボウリング場やインドア・ゴルフ場を開いて、経営の多角化を進め、吉本の業績を急上昇させるなど、手腕を発揮する。一方、弘高ら東京吉本系の社員は、当時再開したばかりの演芸部門には冷淡であり、花月劇場を閉鎖しようとさえしたという。こうした路線に反発して、後に吉本の社長になる中邨秀雄は、一旦吉本を退社している。
一方、弘高は後に病気で倒れ、1970年(昭和45年)再び正之助が社長に復帰した。正之助復帰に伴い、彼に近い中邨が吉本に復帰する一方で、弘高・東京吉本系の幹部社員の多くは失脚し、当時幹部の顔ぶれががらりと変わったほどであった。
結局吉本は、当初は経営陣の中枢を創業者一族で固める同族企業として出発したが、その中で、吉本せいと林正之助間で姉弟間の、さらには正之助と弘高間で兄弟間の主導権争いを繰り広げてきた。前者には「吉本家」対「林家」、後者には「大阪」対「東京」という対立軸も加わり、様相を一層複雑なものにした。いずれの主導権争いでも最終的に勝利したのは正之助であり、その過程で吉本興業の経営の実権は吉本家から林家、さらには同家の正之助直系に移っていった。一方近年は、独自路線を強める吉野社長以下現経営陣に対して、それを創業者一族離れと見る大株主の林家が批判を強めている。特に 2007年(平成19年)には週刊現代が「創業者一族が○暴(まるぼう)を使って副社長を恐喝!」というスクープ記事を載せたり、週刊新潮が中田カウスが山口組を背景に創業者一族を脅しているとの告発記事を掲載と、週刊誌を使って経営権争いを有利に進めるためのリーク合戦をするに至り、注目を集めた。こうした対立は、老舗の同族企業にはよく見られるパターンとはいえ、その行方が注目されるところである。(なお、近年の記事において林家を「創業家」とする記述も散見されるが、前述のように吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は厳密には「創業者一族」である。系列のイベント会社「正和吉本」を経営する吉本公一が創業家。)
所属芸人の多くは、契約書も交わしていないし口約束すらしていない。ダウンタウン松本などは「契約金をもらった事もないし、このままどっかに移籍しても法的には一切問題ない」という。また、タレントの送迎などをせず、どれだけ売れっ子でも自分で車や電車で移動する。
タレントの給料は歩合制のため、若手であまり仕事がない芸人の場合、「銀行のATM手数料や交通費がギャラより高い」といった現象が起こる。さんまや紳助は童謡・こいのぼりの替え歌で「ギャラより高い交通費」と度々歌っている。又、給料がいくらであっても必ず1割〜8割を吉本側が天引きし、また源泉徴収することでも知られている。ただ、漫才などの賞レースや特番の賞金などについては一部プロダクションの中には、その賞金を数割程度会社側が取り込むというところも多いようであるが、吉本興業ではギャラ以外でタレントが直接稼いできたお金は全額そのタレントのもとに入るという。
吉本興業は芸能プロダクションとしては珍しく、本業のプロモーター業やテレビ番組製作業以外にも、会社の方針として積極的に様々な分野へ新規参入をして事業展開に乗り出すが、十分な採算が取れなければ不採算部門からの撤退も早い。
1959年の演芸復活の際、当時の八田常務は映画産業の斜陽化とテレビ時代を予見。単なる演芸の復活ではなく、テレビ時代に対応した事業の確立を目指した。演芸の番組の合間にテレビ番組の収録を挿入し、またテレビの舞台中継を通じて番組製作のノウハウを入手。更に売から肖像権全てを自社グループ内で処理をしてしまう一連のコンテンツ流通の仕組みを持つ。
又、2005年には、吉本興業やフェイス、ファンダンゴ、インテルなどが出資する戦略グループ会社として、株式会社ベルロックメディアを米国に設立。同時に日本法人も立ち上げ、日米でメディアの多様化にあわせ吉本グループのコンテンツを活かした新たなビジネスモデルを構築しつつある。
現在吉本興業は、大阪・東京に本社を置き、それぞれ「大阪吉本」「東京吉本」と呼ばれている。それ以外に、名古屋に東海支社、札幌に札幌事務所、福岡に福岡事務所、広島に広島事務所を置き、それぞれ「名古屋吉本」「札幌吉本」「福岡吉本」「広島吉本」と呼ばれて、地元では親しまれている。「福岡吉本」はさらに短縮して「福吉」(ふくよし)とも地元のお笑いファンには呼ばれている。
吉本の各地方事務所は、それぞれ地元のローカルタレントを所属タレントとして抱えている。彼らの多くは、ローカル局で製作される地元の番組で司会やレポーターを務めているが、中には地元での圧倒的人気を背景に、東京吉本に移籍し、活躍の場を全国区に移す者も少なくない。逆に東京・大阪の吉本から地方の吉本へ移籍し、活躍の場をあえてローカルに求める者もいる。
地方の吉本の中で、最も成功していると言われているのが福岡吉本である。大阪や東京のお笑いを持ち込むのではなく、福岡発のお笑いを育てるという方針に当初から徹底しているために、地元のテレビ局の信頼も厚く、今や福岡では朝から深夜に至るまで、テレビで福岡吉本のタレントの顔を見ない日はないほどである。とりわけ近年上記3組の他にもカンニング竹山、ヒロシと福岡吉本出身の芸人の全国区での活躍が目立ち、あらためて「九州に福岡吉本あり」を全国に印象付けることとなった。今や福岡吉本は、地方の吉本の中では最も多い芸人を抱え、大阪吉本、東京吉本に次ぐお笑い界第3極の座を窺いつつある。
「吉」の字を笑顔に見立てたこのマークは実は二代目であり、初代は四ツ花菱の中央に「本吉」と右書きで書かれた物(吉本が「花のれん」と言われた所以)。二代目は昭和30年代半ばに制定された物で当初は花月劇場の広告にも用いられていたが、昭和50年代以降は対外的に用いられなくなっていた。1994年に三代目のロゴマークが制定されたが、これは「YOshimoto」のYOと笑顔を掛け合わせたデザインとなっており、2007年9月まで使用されていた。
本業の「お笑い」の影に隠れがちだが、吉本興業はスポーツとの関係も深い。特にプロ野球とプロレスの草創期には、大変重要な役割を果たしている。
まずプロ野球であるが、昭和9年(1934年)の アメリカメジャーリーグ選抜軍来日を契機に、日本でもプロ野球球団結成の機運が高まった。これを受け、正力松太郎の音頭の下、吉本興業は、同年に京成電鉄や東芝らと共同出資して巨人軍(当時の正式名称は大日本東京野球倶楽部)を設立した。そして吉本興業総支配人の林正之助が巨人軍の役員に就任し、球団経営に参画した。大日本東京野球倶楽部は東京巨人軍への改称を経て、戦後の1947年、読売新聞社の完全系列下に入り、吉本興業との資本関係は切れた。
また戦後のプロレス草創期において、力士を廃業していた力道山を担ぎ出し、プロレスブームを起こしたのも吉本である。1953年アメリカでのプロレス修行から帰国した力道山を迎え、大阪の吉本興業社長林正之助、東京の「吉本株式会社」社長林弘高の林兄弟が、新田建設社長新田新作、浪曲の興行師永田貞雄と共に設立したのが日本プロレス協会であった。早速力道山を主役にプロレス興行を始めて、大人気を博し、特に力道山が木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合は日本テレビとNHKを通じて全国に中継され話題を呼んだ。当試合は日本テレビの独占中継の予定だったが、NHKが吉本サイドを通して、強引に割り込んだという逸話も。こうしてプロレスブームを背景に、1954年日本プロレスリング興業株式会社を設立。社長に新田が、取締役に吉本の林兄弟や永田らが就任した。以後も吉本はプロレス興行を手がけていくが、やがてプロレス人気に翳りが見え始めたこと、力道山とスタッフの関係が悪化していったことなどもあり、1957年の興行を最後にプロレスから手を引いた。
1999年には、元プロ野球選手であった小坂勝仁が吉本興業社員となっていた関係で、小坂の働きかけで社内にスポーツマネジメント部門を新設し、長谷川滋利らを皮切りに、スポーツ選手のマネジメントに乗り出した。また2002年には社会人ラグビーの雄・神戸製鋼と、また2005年にはプロ野球球団オリックス・バファローズと業務提携し、オリックスの清原和博を吉本新喜劇の舞台に登場させたりしている。さらに新聞報道によると、吉本興業は現在チームを設立して社会人野球に参入することを検討中とも伝えられている。記憶に新しい所では2007年の夏に大阪の長居スタジアムで開催された第11回世界陸上大阪大会のスポンサーを務めた。
吉本のお笑いに魅せられ、吉本ファンになった文豪・文学者は少なくない。志賀直哉は戦前、しばしば大阪の吉本の寄席を訪れているところを目撃されているし[10]、永井荷風の日記「断腸亭日乗」を読めば、荷風が戦前・戦後を通じて浅草花月劇場(東京吉本の本拠地)の常連客であったことがわかる。吉本の幹部社員とも親しかった織田作之助は、代表作「夫婦善哉」の中で、主人公が法善寺の花月(戦前の吉本で、最も格式が高かった寄席)を訪れるシーンを描いているし、辻邦生は、若かりし頃、浅草花月の楽屋に入り浸り、将来小屋の文芸部員になることを考えていたらしい(『辻邦生作品全六巻3』の付録、月報III『「文芸」の会のころ』、p.2より)。
吉本そのものを題材にした文学作品にも事欠かない。もっとも有名なのは、吉本興業の創業者吉本せいをモデルにした山崎豊子の「花のれん」(1958年)であろう。この作品は1958年、第39回直木賞を受賞し、翌年豊田四郎監督により淡島千景、森繁久彌のコンビで映画化されている。同様に吉本せいをノンフィクションで描いた矢野誠一「女興行師 吉本せい」(1987年)もある。この作品は、「桜月記−女興行師 吉本せい」と題して、1991年に森光子主演で帝国劇場において上演された。浅草花月を舞台に戦前の東京吉本を描いた高見順の「如何なる星の下に」(1939年)も佳作。主人公・小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子と言われている[11]。この作品も戦後の1962年になって、東宝で豊田四郎監督により映画化された。また直木賞作家・難波利三の「小説 吉本興業」(1988年)は、戦前・戦後の吉本興業とその芸人達を描いている。
^ 幼少時にアメリカから来日。後にチャキチャキの東京弁を使いこなす金髪美女として芸能界の人気者となる。その後東京吉本に入り、日本髪着物姿で、日本舞踊を踊る様が、戦前の浅草花月の名物となった。1941年(昭和16年)の日米開戦前後にアメリカに帰国。戦時中は、長年の日本滞在経験を生かして、米軍の情報活動にも協力したという。(旗一兵著「喜劇人回り舞台」学風書院、1958年)
^ 演芸評論家の小島貞二によれば、浅草花月は昭和10年にオープンするや否や、浅草公園六区の観客の熱狂的支持を集め、六区の人の流れを変えてしまうほどであったという。小島貞二「東京吉本ラプソディ」『ザ・よしもと大解剖』読売新聞社、1988年所収
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